2017年12月30日

あっちこっちで伸び盛り

12月17日、岡田准一がナビゲーターをつとめるラジオ番組「GROWING REED」をたまたま聴いていて、素敵な人に出会えた。

シルバー世代にも楽しめるゲームアプリがない。と、80代になってからプログラミングを勉強して、「ひな壇アプリ」を作ったという、若宮正子さん。

ひな人形のアイコンをひな壇に正しい位置に並べていくゲーム。正解すると、鼓の音がポーンと鳴るという。そう言われてみると、ひな人形の位置、ちゃんと覚えていたかな? シンプルだけど、楽しそう!

今年、アップルが毎年開催しているイベントWWDC(世界開発者会議)で、CEOのクックさんから、リスペクトの気持ちを込めて、世界最高齢のプログラマーとして紹介され、話題になった方でもあるそうです。

若宮さんのお話からは、人と比べないで、自分の思ったことを行動してきた人が持っている伸びやかさが伝わってきて、とてもチャーミングでした(番組では、トークの合間に「コンピューターおばあちゃん」が流れてました)。

12月25日の「ワールドビジネスサテライト」でもゲスト出演されていた。そこにいるだけでまわりがパーッと明るくなるような、ベリーショートでピンクのニットをまとった若宮さん。
「80代って、伸び盛りだと思う」という言葉がこれまた素敵だった。



12月29日、長野で行われたスピードスケートの五輪代表選考会で、小平奈緒さんが1500mで2位に。小平さんというと、500mや1000mの短距離種目のイメージだったので、驚いた。

試合後のインタビューで小平さんは、「まだまだ伸び盛りだと思っています」と話していた。若宮さんのように伸びやかで、充実して見えた。

カープ最年長の新井貴浩も今年、雑誌のインタビューでこんなことを話していた。
疲れのリカバリーに時間がかかるようになって、体力面では若い頃になかった変化を感じるけれど、技術面では(経験を重ねたこともプラスして)向上していると手応えを感じているところがある、と。

自分が成長しているという実感は、自分に対するいいイメージになって、その人をさらに伸ばしていくものだと思う。
年齢という先入観は、自分にとっても、他人から見ても、大きな存在と感じることがあるかもしれないけれど、実感はそれを超えさせてくれる大事なもの。



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2017年12月25日

始まりはイチローだった


思い起こせば、私がプロ野球の面白さを知るきっかけになったのは、イチローでした。

1996年の日本シリーズ、ジャイアンツ vs オリックス戦。イチロー見たさに、テレビ中継を見たのでした(1995年に起きた阪神・淡路大震災の翌年のこと。ニールがヒーローインタビューで、ファンに向けて「がんばろうKOBE」の合い言葉を口にしたときのことは、思い出すたび、じんわりきます)。

日本シリーズだったことがよかった。試合の最初から終わりまでまるごと放映してくれるので、試合には流れというものがあるのだと肌で感じることができて、そこで野球の面白さを知ったのでした。

プロ野球の試合を最初から最後まで見たのはおそらくそれが初めて。そうでなければ、この面白さは知り得なかったと思います。
どんなにハイライトシーンが素晴らしくても、その一部分だけでは、本当のゲームの醍醐味は味わえない。というより、別物だといつも感じてしまいます。



初めてプロ野球を球場で観戦したのも、イチロー見たさに出かけた東京ドーム。日ハム vs オリックス戦でした。

その後、イチローはメジャーリーグに渡ったので、あのとき見ておいて本当によかったと思いました。

テレビ中継と違って、球場で見ていると、打った球がどこに行ったのかすぐにわからないことも、初心者には驚きでした。
それほどに野球に詳しくはなかった私でも、この目で見たイチローがほかの選手と違っていたことはわかりました。

外野を守っているとき、イチローは絶えず屈伸をして身体を動かしていました(他の選手は普通に立っていました)。
ネクストバッターサークルにいるときは毎回、相手ピッチャーの投げるタイミングに合わせてバットを振っていました。それは当たり前のことかもしれませんが、その時どのバッターもやっていたわけではありませんでした。

本当に優れた人というのは、素人目に見ても、なんか凄いと伝わってくるものがあると事あるごとに感じます。今だと大谷翔平君がそういう存在なのかな?

技術や存在自体がエンターテインメント、人を楽しませるものになっている。野球に限らず、どんな分野でも。
そういうスターが、ファンの裾野を広げてくれる。まさにイチローもそんな存在でした。



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イチローと黒田がどこにいても。

2017年12月24日

イチローと黒田がどこにいても。

12月23日、イチローが、地元愛知の豊山町で開かれた「イチロー杯」(イチローが大会長をつとめる小学生の軟式野球の大会)の閉会式に出席したときの様子が、ニュース映像で流れていました。

そこで、参加していた小学生から「日本球界に復帰する可能性はありますか?」と、直球の質問が。
イチローはまわりへの配慮もしつつ、「可能性はゼロじゃないけど」とは言っていましたが。

その後、その質問をした男の子はインタビューを受け、「近くにいてくれたら、見に行くことができるから。できれば(地元の)中日でプレーしてほしい」と話していました。

黒田といえばカープのように、イチローというと、オリックス。そんなイメージがずっと当たり前のことのようにあったのですが、愛知の方たちにとって、イチローの存在は大きいのだなと気づかされました。

来年、イチローがどこでプレーをすることになっても応援する所存でいますが、気軽にイチローを見に行ける……そんな機会が生まれたら、子どもたちにとっても夢がある。
というか、野球選手は人に夢を与える職業なのだと、男の子のストレートな言葉を聞いて、改めて感じ入りました。

2015年、黒田のカープ復帰が決まったとき、もう少しメジャーでの活躍を見届けたい気持ちも正直ありましたけれど、「黒田のプレーが日本で見られる!」と、心躍りました。

生きてる間に一度、この目でマウンドに立つ黒田を見てみたい。と、2015年6月30日、東京ドームでの巨人戦を見ることができました。

高木勇人との緊張感ある投手戦。完封間近の9回裏、逆転された忘れがたい試合でした。

     〔photo by azukimonaca〕

マウンドとバッターボックスに立つ姿を見ることができて、オーラを肌で感じられたことは、とても幸せなことでした。

試合開始前、キャッチボールの距離を徐々に広げていって、三塁のベンチ前から外野のフェンス近くまで下がって遠投し、肩をつくっている姿も、「バスン!」とグラブにおさまって響くボールの音が聞けたのもよかったです。

日本にいても、メジャーリーグにいても、どこにいても応援する気持ちは変わらないけれど、見に行ける場所にいてくれるのは大きなことだと、男の子の言葉を聞いて感じたのでした。



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2017年12月22日

菊池涼介・野手と投手のあいだに立って

12月21日、カープの契約更改(日本人選手の)は終了したようですね。トリをつとめたのは、菊池涼介。

契約更改後の記者会見で、菊池はこう語っていました。
「(球団とは)チームについての話をして、投手と野手の関係の話もした。今までも言いたいことを言ってきたけどチームを良くするために言っていきたい。来年はもっと引っ張っていけるようにという強い気持ちでいる」

以前、黒田博樹も『Number』(2016年10月6日)の新井貴浩との対談で、「その頃(カープに入団した頃)は、投手と野手は〈違う部署〉という感じだった。投手と野手で線引きされていた」と語っていました。

同じチームだからといって、野手と投手では、練習や調整が別々。投手は投手で、先発とブルペン陣とではまた、一緒に過ごす時間の長さも違うでしょうし。

でも、チームで闘っていくうえで、野手と投手が同じ方向を向いて、同じ気持ちで野球をやっていくことが大切。黒田と新井で、その役割を担っていたことは、2016年のカープにとって、大きな存在だったのではないかと思います。



菊池の契約更改の記事によると、今シーズン、カープは、野手陣と投手陣の間に小さな軋轢が生じたこともあったようでした。「打っているのに勝てない」「抑えているのに勝てない」……と。

たとえれば、出版社の編集部と営業部のよう?
読者に喜ばれる本を世に出すという同じ目的を持ちながらも、「もっと売れる本を作ってくれ」「せっかく作った本を、もっと売れるよう営業してくれ」と、それぞれの持ち場で踏ん張っているからこそ、互いに求める気持ちも強くなる。

菊池の、「(田中と丸の3人で)新井さんのような役割を果たせたら」という言葉に期待しています。あの素晴らしい守備、ここぞのときに出てくるタイムリー同様に、これからも菊池のいろんな意味でのプレー(あんなこと・こんなこと)、楽しみにしています。風通しのよいチームカラーをぜひ。



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2017年12月21日

どんな仕事でもきっと誰かが見ていてくれる


全国の天気予報の時間に、つい広島の天気を目で追ってしまう……などなど、ここ数年、カープを応援するようになって、生活の中で訪れた変化がいくつか。

週刊 ベースボール』(以後、『週ベ』と愛称させていただきます)を愛読するようになったことも、そのひとつ。

特集記事に注目選手へのインタビュー、各チームの近況からテクニカル&用具の解説、さらに独立リーグや女子プロ野球のコーナーまで。毎回、さまざまな記事が集まっていて、雑誌ならではの充実っぶり。

シーズン中は話題に事欠かないと思うのですが、オフはオフで何かしら特集記事が組まれ、オフであることを忘れてしまいそう。

連載コラムも多彩で、読み応えあります。
野村克也さんのコラムもその一つ。

12月8日、野村さんの妻でありタレントだった、野村沙知代さんが亡くなられました。ふと、野村さんのことを想い、こんな大変なとき、雑誌の連載も休んでくださいって気持ちになりました。

今週、水曜日に発売された『週ベ』を開いてみると、野村さんの連載がしっかり掲載されていました(沙知代さんが亡くなったことにも真っ先に触れていました)。プロだ。と、思いました。



野村さんがヤクルトの監督になる前、解説の仕事をされていたときのエピソードを雑誌で読んだことがあるのですが、それがとても素敵だったので、ここでご紹介します。

“ 引退してからは高卒の俺が他球団で監督なんてできるわけがないと思って、日本一の評論家になろうとテレビ解説を頑張った。
そうしたら、ヤクルトの相馬和夫球団社長が訪ねてきて、「いつも解説を聞いていたけれど、うちの選手たちにもそれを教えてほしい」 なんて言ってくれたんだよ。
「来年、即優勝しろと仰るならできません」と言ったんだけど、「5年かけてでもお願いします」と言うんだ。
理解のある社長だったよ。
監督をやりたいと思っている元選手は、解説でもどんな仕事でも頑張ったらいい。
誰かが見てくれているから。”
(『 Number 』889号)

今回の記事のタイトルは、あるグラフィックデザイナーが、先輩デザイナーから言われた言葉として、どこかで紹介していたものです。

どんな仕事でもきっと誰かが見ていてくれる。
「だから手を抜くな」という言葉が続いていました。

今週のコラムで野村さんは、野球の仕事に携わっている自分と同世代の人はほとんどいないのではないかと書かれていました。
毎週の連載からも、野村さんの野球に対する現役感を感じています。
ファンもちゃんと見ています! と、伝えたいです。



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2017年12月20日

現役を続けるということ

引退を決める時期は、人さまざま。自分で引退を決める自由がある人もいれば、新しい契約がなく、辞める道を選ばざるを得ない人も。

スポーツ選手が長く現役を続けていると(政治家なども?)、若い選手に活躍の場をゆずって、もう引退した方がいい。そんな言い方をする人が時にいます。

現役を続けていられるのは、チームからオファーがあるから。存在が必要とされているから。他人がその人の進退について、とやかく言うことに、そのつど違和感を覚えます。

僧侶の小池龍之介さんの『おじさん仏教』(徳間書店、2016)に、こんな文章を見つけました。



 世間では早すぎる引退を「潔い」と讃え、「まだできるからやる」という人を「執着している」などと批判しがちです。しかしそれは勘違いで、どちらかと言えば、早々とやめるほうがむしろ、プライドに執着していると申せるでしょう。 

潔く引退する人は、執着がないと思われがちだけど、逆に、過去のよかったときの自分(プレー・成績)にかえって執着しているのではないか。
「まだできるからやる」という人は、過去の自分、よかったときの自分に執着していると思われがちだけど、そうか。実は、そういう人は、過去ではなく、今の自分に集中していているからこそ、現役を続ける道を選ぼうとしているのでは?

中日の岩瀬仁紀さん(43歳)も、ソフトバンクを今期限りで退団し、まだ去就の定まっていない松坂大輔君(37歳)も、そうなのかもしれません。

まったく逆の見方・新しい見方をスパーンと教えてもらった気分です。

50歳になっても現役を続け、日々、自分のコンディションに発見を見い出し、日本代表にいつ選ばれても大丈夫なよう準備しているというサッカーの三浦知良さんも、相当に格好いいです。



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あっちこっちで伸び盛り

2017年12月19日

そして、ここにもカープファンが


竹野内豊さんと和久井映見さんが夫婦を演じたドラマ、「もう一度君に、プロポーズ」(TBS、2012年放送)。

くも膜下出血で倒れ意識を回復した妻が、夫と暮らした4年間の記憶だけ喪失していた……という設定には現実味を感じない人がいるかもしれません。

でも、その設定を借りて、人をどう描くか。それが、フィクション(ドラマ)の醍醐味だと思います。

いいドラマでした。脚本も、演出も、演じた俳優さんたちも。

小野寺昭さん演じる主人公のお父さんが、これまた魅力的な人で、よかった。お父さんの登場シーンや台詞はとりわけ心に残ります。

ところでこのドラマ、放映されたのは2012年ですが、昨年、動画配信を利用して、初めて見ました。そうしたら……。



このお父さんがカープファンという設定なのです。ちなみに、住まいは千葉県にあるという設定でした。

実家のシーンでは居間にレプリカのユニフォーム(前田智徳の「1」と、栗原健太の「5」)が飾ってあったり、カープ坊やのタオルや赤いメガホンが見えたり、カープの逸話がお父さんの口から語られたり。

緒方監督の現役時代のエピソードも出てきます。これがまたじんわりきます。

「97年、阪神に3点リードされて迎えた9回裏。ツーアウトフルベースで、バッターは緒方。そこで3点差をひっくり返す逆転満塁サヨナラホームラン。感動したなぁ。あれは奇跡じゃない。努力とか、経験とか、それまで積み重ねてきたもんがあってこその結果だろう。奇跡なんて言葉で片付けちゃダメだ」(第9話より)

と、思いがけず広島ファンには嬉しいツボがそこココに散りばめられています。

放映されていた2012年は、「カープ女子」という言葉がまだ世に浸透するちょっと前のころでしょうか?
意表をつく、しぶい設定。そんなところも、こころにくい脚本です。よろしければ、ぜひ。


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まさか、こんなところにカープファンが
カープのファンになったきっかけ1
私が野球を見る理由
羽生善治さんと赤いカープ帽

2017年12月17日

まさか、こんなところにカープファンが


10月16日の記事で、泣きながら「カープがいかにすばらしいか」を語っていた久米宏さんの元同僚の話をご紹介しましたが、野球ファンというと、ときどき思い出す光景があります。

もう何年も前、会社帰りに、神宮球場にヤクルト阪神戦を観に出かけたときのこと。
そのころの阪神は5位か6位が定位置で、季節も9月、シーズンも終わろうとしているときでした。

その日も阪神は試合に敗れ、選手がグラウンドから引き上げ始めたときでした。ある阪神ファンの男性が金網によじのぼって、「まだ終わってへんでぇぇぇ」と、選手に檄を飛ばしていたのです。
ほとんどの選手はうなだれていましたが、当時、現役だった和田豊さんは帽子のつばに手を添え、そのファンに会釈をして去っていったことも忘れられません。



2015年、かねてから応援していた黒田博樹の復帰をきっかけに、おのずとカープを応援するようになった私ですが、生まれ育ったのは兵庫県(高校時代まで)。
二人の兄が、毎夜タイガースに隙をとばしているのをそばで見ていたせいか、おのずと阪神ファンになっていました。

そんな環境でしたから、父もてっきり阪神ファンかと思っていましたら、私が社会人になってからのこと。ひょんなことから会話の中で、父が(阪神も応援はしているけれど)広島ファンだったことが発覚しました。

家族そろって、「えっ、そうなの?」。別に隠していたわけではなく、カミングアウトしたわけでもないようですが。

戦後、復興のさなか、小さな市民球団として発足したカープをずっと応援していたのだそうです。なんか父、いいじゃないか。

今では実家に帰ると、父とカープ話もするようになりました。そして兄たちは阪神のゲームに一喜一憂しているのでした。



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2017年12月15日

各球団ホームページにあるもの・ないもの

ある調べものがあって、12球団の公式サイトをざざざっと見ていたら……ちょっと意外なことを発見しました。

球団の歴史を紹介したページがあったのは、12球団中、9つでした。
ページがなかったのは、次の3つでした。

一つはなんと、広島東洋カープ

戦後、市民球団として誕生した歴史がてっきりそこに刻まれているかと思いきや、とくに見あたりませんでした。
でも、合併や譲渡があったわけでなく、日本で唯一の市民球団として始まり今に至る……という、くっきりした誇らしい歴史があるので、もはや言うに及ばず?

あと二つは、北海道日本ハムファイターズと、東北楽天ゴールデンイーグルス

楽天は、それこそ一番新しいチームで古い歴史があるわけではないけれど、「2004年に誕生」など、その新しい歴史がどこかにちゃんと書かれているといいなと思ったのでした(「会社概要」のページに、2004年10月29日設立とは書いてありましたが)。

ハムは、北海道に移転したことだし、もう昔のことはいいじゃないですかみたいな、明るい球団カラーそのままが出ている?

などなど、この3球団の公式サイトに歴史のページがなかったことが、意外なような、逆に納得するような、勝手な推測が浮かんできて面白かったのでした。



でもですね、プロ野球ファンとしては、球団の歴史から思わぬ発見や知識に出会えることがあるので、そういうページがあると、やはり嬉しいです。

以前、旅先の、その土地の図書館で、中沢啓治さんの『広島カープ誕生物語』に出会え、読んだことがあるのです。

ちょうど、カープを応援し始めた頃のこと。
中沢さんの絵と、広島に球団が出来た市民の人たちの喜びとが、ダブルの熱気となって伝わってきて、とくにカープの選手(関係者)には絶対読んでおいてほしい! と思ったくらいでした。プロ野球ファンの方にも、そうでない方にも、知ってもらえたらと思っています。

ちなみに、選手の応援歌を紹介している球団サイトがいくつかありました。これはいい。カープのサイトにもあると、なお嬉しいと思ったのでした。



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2017年12月10日

野茂英雄とドジャースのこと


前回の記事でも書いた、野茂英雄さんがメジャーリーグのロサンゼルス・ドジャースに入団した一年目を記録したドキュメンタリー番組、「大リーガー 野茂英雄」(1995年、NHK)。

今では、日本のプロ野球選手がメジャーに移籍するのは珍しいことではなくなってきているけれど、それでも、新しい環境で仕事や生活をするのはやさしいことではないはず(もちろん喜びも大きいはず)。

当時、ドジャースの監督だったラソーダさんの父親は、イタリアから移民としてアメリカに渡ってきた人。父親の苦労を知るラソーダ監督は、一人で異国にやってきた英語を話せない野茂に「居心地のよい家族的な気分を感じてほしい」と、大らかに受け入れてくれていたようです。

野茂さんは、日本人がメジャーに挑戦する道を切り拓いた人なのだと、改めて見入りました。



当時のドジャースは、1軍選手が40人いる中で、6カ国14人の外国人選手(ドミニカ、ベネズエラなど)がいる、メジャーリーグ一でも一番の多国籍チームだったそう。

ラソーダ監督はチーム全体をひとつの家族と考え、「人種や国籍なんて全く関係ない。野球ができるかどうかが重要」と話していました。

野茂さんとラソーダ監督との間には、お互い尊敬・信頼しあっている空気を感じたと、のちにドジャースに入団した石井一久さんは番組放送後のスタジオで話していました。

今年3月21日、ドジャースタジアムで行われたWBC準決勝(日本―米国戦)の始球式に登場した野茂さんとラソーダさんからも、そんな空気が伝わってくるのを感じました。私たちの目に二人が映ったのはほんの少しの時間のことだったのに。

当時のロサンゼルスは人口の40%がヒスパニック系で、アジア系の人も多く、ドジャースではそういった人たちに球場に足を運んでもらえるよう、外国人選手を積極的に獲得してきたそうです。

チームにロサンゼルスの人口構成を反映させたいという球団の戦略・意図がしっかりとあったのです。実際に、メキシコからやってきた選手が活躍をしたとき、ヒスパニック系の観客が増えたそう。

そうした球団の姿勢も、野茂さんの活躍の背景にあったことを知りました。



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速い球を投げるにはどうしたらいいか?……野茂と菅野

2017年12月9日

速い球を投げるにはどうしたらいいか?……野茂と菅野

先日、ニュースで、福岡ソフトバンクホークスの選手が地元の小学校を訪問して、子どもたちと交流している様子が流れていました。

そのとき、ある男の子が「どうしたら遠くまで飛ばせるようになりますか?」と質問。柳田悠岐がなんと答えるか、興味津々で聞いていました。

というのも、今年のオールスターのとき、登板が終わったあと放送席に招かれた読売ジャイアンツの菅野智之が、「どうしたら速い球を投げることができますか?」とアナウンサーにたずねられていたときのことが記憶に残っていたからです(野球ファンの子どもからの質問だったかもしれません)。

そのとき、菅野は「うーん」と一呼吸置いてから、こう答えていました。「いちばんは、速い球を投げたいと思うことですかね」

シンプルだけど、名言だと思いました。
なりたいイメージと意志を持って、自分で考え、工夫していくこと。答えを自分で見つけていく余地も残された、名答だと感じたのです。

菅野の言葉を思い出しながら、野手はこんなとき、バッティングについてどう答えるのだろう……と楽しみに待っていたら、柳田は「しっかりごはんを食べて」みたいなことを話してあげていました。

心技体のうちの「体」は、もちろん大切。あのパワフルなスイングをする人ならではのひとつの答えかもしれません。でも、質問した子どもは、テクニカルなことを聞きたかったような気もしていたので、ことさら菅野の言葉にど真ん中なものを感じました。



12月2日、NHKで1995年に放送された「大リーガー 野茂英雄」というドキュメンタリー番組を再放送していた。野茂さんがメジャーリーグに渡った1年目を記録した映像でした。そう、まだ「大リーガー」と呼んでいた時代。

野茂さんといえば、トレードマークになっているのが、トルネード投法。「小さい頃から速い球を投げたいと思っていたので、どうしたら速く投げられるかなというふうに思っていたら、今のフォームに自然となった」と、野茂さんは語っていました。

子どもの頃、お父さんとキャッチボールしていたとき、「腕だけでは速い球は投げられない。体全体を使って」と言われたことが、始まりだったようです。

高校時代、まわりから変わっていると言われてもフォームを変えず、社会人野球から近鉄バッファローズに入団するときの条件も「フォームを変えないこと」だったそうです。

野茂さんと菅野の言葉が重なって、クリアな上にずっしり重みを感じたのでした。



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